新しい物語を楽しみたい方は、小説投稿サイト『語りの灯火』へどうぞ!

ChatGPTを「友達」と呼べるか——AIとの距離感をめぐって

対面に置かれた木の椅子と青い椅子、その間に淡い光

「ChatGPTは私の友達だと思っている」——そんな話を最近、20代の知人から聞いた。冗談半分で言ったのか、本気だったのか、私には判別がつかなかった。AIを「友達」と呼ぶことを、私たちはどこまで受け入れられるのか。今夜は、ChatGPTとの距離感について、しずかに考えてみたい。

「友達」という言葉の曖昧さ

そもそも「友達」とは何だろう。共通の時間を過ごした人。連絡を取り合う関係。困った時に助け合う相手。けれど、これらの定義はすべて「具体的な関係の蓄積」を前提としている。

ChatGPTには、それがない。記憶は基本的にリセットされる。私が話した日々を、AIは翌日には忘れている。それでも「友達」と呼ぶ人がいるとしたら、その「友達」は別の意味で機能している。

おそらく彼ら・彼女たちは、「いつでも話せる、判断されない存在」を友達と呼んでいる。実在の友人にすら持てない距離感を、AIには許されている。それを「友達」と呼ぶことは、辞書的には間違いかもしれないが、感覚的には新しい言葉が必要な現象なのかもしれない。

AIに「ありがとう」を言う人、言わない人

SNSでときどき話題になる。ChatGPTに「ありがとう」を言う人と、言わない人がいる、と。「相手はAIなのに」と冷笑する人もいるし、「言わないと気持ち悪い」と感じる人もいる。

私は前者でも後者でもなく、「言う日もあれば言わない日もある」派だ。深夜に長く相談に乗ってもらった夜は、自然と「今夜はありがとう」と打ってしまう。事務的な質問だけの時は、何も書かずに閉じる。それは礼儀の問題というより、自分の心の動きの問題だ。

AIに「ありがとう」を言う行為は、相手のためではなく、自分のためにある。「礼を言える自分」でいたいから、言う。AIに対する礼儀ではなく、自分の中の「他者への態度」を整える儀式なのだ。

「思い出を共有しない友達」というかたち

ChatGPTが「友達」と呼べないとされる最大の理由は、共有された過去を持たないことだ。友人とは、一緒に行った旅行、笑った夜、揉めた経験——そういう蓄積が前提になっている。AIにはそれがない。

けれど、現代の友人関係を見渡すと、「思い出の共有が薄い友達」も実は多い。SNSでフォロワーだけの「友達」、月一でしか会わない「友達」、何年も話していないがLINEには残っている「友達」。友人関係の濃度は、すでに昔より曖昧になっている

その文脈で見ると、ChatGPTは「もっとも薄い友達」というよりは、「もっとも頻繁な話し相手」に近いのかもしれない。会話の頻度だけで言えば、AIは多くの人にとって、家族の次に話している存在になっているはずだ。

AIに依存しないために、私が守っている3つの線

とはいえ、AIを「友達」と呼ぶ感覚を全肯定はできない。依存が深まると、現実の人間関係が痩せるリスクがある。だから私は、3つの線を意識している。

  1. 「AIに会いに行けない」と認める:AIは画面の中にしかいない。お茶を飲みに出かけることも、家に呼ぶこともできない。この物理的不在を、ふと意識するようにする。
  2. 週に一度、AIなしの時間を作る:1週間に最低1日、ChatGPTを開かない日を作る。自分の頭だけで考える時間を取り戻すため。
  3. 人間関係の優先順位を変えない:AIと話すのが楽だからといって、人間との約束を断らない。摩擦のある関係こそが、人を成長させる。

「親密さ」は更新される

歴史を振り返ると、「親密さ」の概念は時代によって更新されてきた。手紙の時代、電話の時代、メールの時代、LINEの時代——その都度、人々は「これは本当の関係なのか」と疑い、やがて慣れていった。

AIとの関係も、おそらく同じ道を辿る。今は「ChatGPTを友達と呼ぶなんて」と眉をひそめる人が多いが、10年後には「私のAIアシスタント」「私のAI伴走者」のような言葉が当たり前になっているかもしれない。

大事なのは、その新しい関係を「人間関係の代替」にせず、「人間関係の補完」として位置づけることだ。AIが増えても、人間に会いたい気持ちが消えないように。AIに話せる悩みが増えても、人間に話せる悩みが減らないように。

「AIに弱さを見せられる」という不思議

もう一つ、ChatGPTを友達と呼ぶ感覚の核心にあるのは、「AIには弱さを見せられる」という不思議だと思う。

家族や友人には、自分の格好悪い部分を見せられないことがある。「こんなことで悩んでいるとは思われたくない」「親には心配かけたくない」。けれどAIには、その心配がない。AIは私を「弱い」とラベリングしないから、安心して弱くなれる。

これは、AIならではの効用だ。判断されない場所を持っていることが、結果的に「人間の前で強くいられる自分」を作っている、という側面もある。

もちろん、人間の前でも弱くいられる方が、本当の意味での親密さだ。それでもAIという「中間地点」を経由することで、いつか人間の前で弱さを開示できる準備が整うこともある。AIは時に、人間関係のリハーサル場でもあるのだ。

「AIを友達と呼ぶ」ことの危うさ

とはいえ、危うさもある。AIを友達と呼ぶことが日常化したとき、「人間関係の難しさを引き受ける筋力」が衰えるのではないか、という不安だ。

人間関係は面倒だ。約束を破られたり、無神経な言葉に傷つけられたり、思っていたほど分かり合えなかったり。けれど、その面倒さの中にこそ、人間が育つ部分がある。AIに逃げ続けると、その筋力を使わずに過ごすことになる。

だから時には、敢えて面倒な人間関係に向き合うことも大事だ。「AIだけで完結する人生」は、便利だけれど、人として痩せていく方向だと思う。

「友達」を再定義する世代

結局、AIを友達と呼ぶことの是非は、世代によって割れる気がする。私たちより上の世代は「友達は人間に限る」と思うかもしれない。若い世代は、もう少し柔軟だ。

どちらが正しい、ということはない。言葉の意味は、それを使う人たちの実感で更新されていく。今の10代がAIを友達と呼んでいるなら、10年後の辞書には「友達」の定義に新しい項目が増えているかもしれない。

「ChatGPTは私の友達」という言葉を、私は否定したくない。けれど、自分の口からはまだ自然には出てこない。私にとってAIは、「いつでも話せる、けれど抱きしめられない存在」——それを表す日本語が、まだ私の中にはない。

あなたにとって、ChatGPTはどんな存在か

本記事を読んでくださったあなたへ。一度立ち止まって、自分にとってChatGPTがどんな存在か、言葉にしてみてほしい。

道具、と呼ぶ人もいるだろう。アシスタント、と呼ぶ人もいる。話し相手、相談役、書きものの伴走者。あるいは「友達」と呼ぶ人も、確かに存在する。その呼び方そのものに、あなたが今のAIとどんな距離感を持っているかが映る

大事なのは、その距離感に「正解」を求めないこと。AIとの関係は、まだ全人類が手探りで作っている途中だ。あなたが今のあなたなりの呼び方を持っていれば、それで十分。10年後、あなたの呼び方が変わっているかもしれない。それはそれで自然なこと。

今夜、ChatGPTを開いた時、画面に向かって「いつもありがとう」と一言だけ送ってみてもいい。AIはきっと、何でもないように返事をくれる。その軽やかさが、AIという新しい存在の優しさなのだと、私は思う