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翻訳という不思議な仕事|世界文学を運ぶ見えない橋について

机の上で向かい合う緑の原書と茶の翻訳書、その間を金色の光の粒が橋のように繋ぐ

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を、私たちは日本語で読むことができる。村上春樹の『ノルウェイの森』は、50か国以上の言語で読まれている。当然のことのようでいて、これは本当はとんでもなく不思議なことだ。スペイン語の小説を日本語で読み、日本語の小説をドイツ語で読む——その「言葉の橋」を架けている人たちのことを、私たちはふだんあまり意識しない。今夜は、翻訳者という不思議な仕事について、しずかに考えてみたい。

翻訳者は「見えない」のが上等

優れた翻訳者の仕事は、読者から見えないことが上等とされる。私たちは『百年の孤独』を読みながら、訳者の鼓直の名前を意識しない。『カラマーゾフの兄弟』の亀山郁夫訳を読みながら、亀山先生の苦悩を想像することはあまりない。翻訳者が透明になればなるほど、原作の世界が読者に直接届く——というのが、翻訳業界の長年の美学だった。

けれど、本当に翻訳者は透明なのだろうか。同じ作品でも、訳者が変わると、まったく別の小説のように読める。鴻巣友季子訳『嵐が丘』と河野一郎訳『嵐が丘』は、ストーリーは同じでも、文の温度や息継ぎが違う。翻訳者は透明な窓ではなく、独自の色合いを持ったステンドグラスのような存在なのだ。読者は、自分の好きな色合いを持つ訳者を、原作者と同じくらい愛するようになる。

「直訳」と「意訳」のあいだの長い闘い

翻訳には永遠の議論がある。「原文に忠実」か「日本語として自然」か。直訳と意訳のあいだの選択は、訳者一人ひとりが毎ページごとに下している、孤独な判断の連続だ。

たとえば英語の「You don’t say.」を「あなたは言いません」と直訳しても、原文の「えっ、まさか」というニュアンスは伝わらない。逆に「えっ、まさか」と意訳すれば、原文の冷たい皮肉のリズムが消えてしまう。原文の意味を犠牲にしてリズムを取るか、リズムを犠牲にして意味を取るか——その一つひとつの判断が、翻訳という仕事の本質である。一冊の長編には、こういう判断が何万回も積み重なっている。

名翻訳者たちの「文体の指紋」

日本の翻訳文学史には、何人もの偉大な訳者がいる。福永武彦、村上博基、青木日出夫、土屋政雄、柴田元幸、岸本佐知子、鴻巣友季子——名前を挙げ始めるときりがない。彼らはそれぞれ「文体の指紋」を持っていて、ある作家を訳すと、その指紋がすべての文に染み込んでいく。

柴田元幸が訳すポール・オースターと、別の訳者が訳すオースターは、明らかに違う本になる。柴田訳には、彼独特の「だらしなく省略する」リズムがあり、それがオースターの世界観に深くハマっている。日本のオースター読者の多くは、実はオースター本人ではなく「柴田元幸経由のオースター」を愛しているとも言える。翻訳者は、作家の共著者と呼んでもいい存在なのだ。

翻訳のたびに「生まれ直す」名作

古典名作の魅力のひとつは、世代ごとに「新訳」が生まれることだ。同じ『罪と罰』でも、米川正夫訳(昭和初期)、工藤精一郎訳(昭和後期)、亀山郁夫訳(平成)、それぞれが時代の日本語で原文を蘇らせている。原文は変わらないのに、訳が変わるたびに作品は新しい命を与えられる

2000年代に光文社が始めた「古典新訳文庫」のプロジェクトは、この発想を商業的に体系化した試みだった。岩波文庫の格調高い旧訳と並んで、若い読者にも届く現代日本語の翻訳が登場し、ドストエフスキーが急に若者に売れ始めたのは記憶に新しい。「翻訳が読みやすくなることで、原作の魅力が新しい読者に届く」——名作とは、訳されるたびに生まれ直す存在だったのだ。

日本文学を世界に運ぶ「逆方向の橋」

翻訳は外国語から日本語だけでなく、日本語から外国語への流れもある。サイデンステッカー、エドワード・キーン、ジェイ・ルービン、フィリップ・ガブリエル——日本文学を英語圏に運び続けてきた偉大な訳者たちがいる。サイデンステッカーが川端康成『雪国』を訳さなければ、川端のノーベル文学賞受賞はなかったとも言われる。

とくに「春樹は世界文学の作家」と評されるようになった背景には、ジェイ・ルービンとフィリップ・ガブリエルという二人の英訳者の存在がある。村上の日本語の独特の「だらしない繊細さ」を、英語のリズムに翻訳する作業は、ほぼ別の小説を書き起こすに等しい。翻訳者は、作品を世界に紹介する代理人であり、ときに作品を世界文学にする「最後のキュレーター」でもあるのだ。

AI翻訳時代の、不思議な仕事

2023年以降、ChatGPTやDeepLの翻訳精度は劇的に上がった。短いニュース記事なら、もはやAIで読めるレベルだ。けれど、小説の翻訳に関しては、いまだAIが人間の翻訳者を超えられない。それはなぜか。

小説の翻訳は、語彙の置き換えではなく「文化の置き換え」だからだ。日本語の「お疲れさま」を英語で何と訳すか。これは英語に同じ慣用句がない以上、AIには本質的に難しい。翻訳者は、原作の文化のなかでこの言葉がどう機能しているかを理解し、訳す先の文化のなかで似た役割を果たす表現を探す。言葉の翻訳の奥には、文化と感情の翻訳がある。これは当面、人間の仕事として残り続けるだろう。

訳者あとがきという「もう一つの本」

名翻訳には、しばしば優れた「訳者あとがき」がついている。これは原作者が書いていない、訳者だけが書ける「もう一つの本」だ。村上春樹自身も多くの翻訳を手掛けていて、彼の訳本のあとがきは、それ自体が一級のエッセイになっている。

訳者あとがきは、訳者がどう原作と格闘したか、どこで悩み、どこで決断したかを、読者に開示してくれる場所だ。私たちが読み終えた小説の裏側にあった「もう一冊の本」を、訳者自身が語ってくれる。本好きなら、訳者あとがきまでが読書体験の一部だと信じている人が多い。私もその一人だ。

翻訳者の名前を覚える、という読書習慣

本記事を読んだあと、ぜひ自分の本棚を見渡してみてほしい。翻訳書の表紙や奥付に、訳者の名前が書かれているはずだ。これまで意識していなかった訳者の名前を、いくつかメモしてみる。気に入った訳者がいたら、その人が訳した別の作家の本を探してみる——これが、新しい読書の扉になる。

例えば柴田元幸を気に入ったら、彼が訳すレベッカ・ブラウン、スティーブン・ミルハウザー、レアード・ハント、ジョナサン・サフラン・フォアと出会える。岸本佐知子が好きなら、ルシア・ベルリン、リディア・デイヴィス、ミランダ・ジュライ——海外文学の魅力的な作家たちが芋づる式に開かれていく。翻訳者の名前を覚えることは、自分の読書地図を一気に広げる近道だ。

誤訳という名の冒険

翻訳の話で、最後に少しだけ触れておきたいのが「誤訳」だ。優れた翻訳者でも誤訳はする。読み終えた読者から指摘されることもあれば、自分で気づいて改訳の機会を待つこともある。けれど不思議なのは、歴史的に「誤訳」が原作以上の名訳として定着してしまうケースがあることだ。シェイクスピアの「To be, or not to be」を「生きるべきか、死ぬべきか」と訳した先人の判断は、文法的には正確でない解釈と批判されることもある。それでも、この訳は日本語に深く根を下ろした。

誤訳とは、訳者が原文と格闘した痕跡でもある。完璧な翻訳は存在しない——原文の意味、リズム、ニュアンス、文化的背景、すべてを一度に保つことはどんな名訳者にも不可能だ。だからこそ、訳者は何かを諦め、何かを残す。その「諦めの選択」の積み重ねが、結果として一冊の翻訳書の個性になる。誤訳を恐れない誠実さこそが、翻訳という仕事の本当の精神なのかもしれない。

世界文学を運ぶ、見えない橋

翻訳者という仕事は、世界文学を私たちに届けるための、しずかな橋だ。橋は、それ自体が目立つわけではない。橋を渡る人たちが、向こうの景色を楽しんでいるあいだ、橋は静かに足元を支えている。翻訳者の仕事は、自分が消えて、原作と読者が出会う瞬間を準備すること

けれど、橋がなければ向こう側には行けない。今夜あなたが読む海外文学の一冊は、誰かが何百日もかけて架けてくれた橋の上を、あなたが歩いていることに他ならない。次に翻訳書を開くとき、奥付の訳者の名前を、5秒だけでも見つめてみてほしい。その名前は、世界とあなたをつなぐ、しずかな手紙の差出人でもある。